Category Archives: 日記(日本語)

大正生まれ

「大正生まれの者だと言って、日本の新聞に投稿してやりました。」初めて訪ねる老人に言われたときはしっくりこなかった。「国鉄の職員、飽くまで公務員が、何万という利用者がいるのにストライキだなんて、許しちゃいけないって。」正直、私の歳では国鉄職員のストライキさえ記憶の範疇か、際どいところだ。日本統治時代の台湾の話を聞く前のウォームアップのはずだったのに、聞き出すどころか、すでに押されている。机の上に伏せてある最新号の文藝春秋を見たときに覚悟すべきだったか、どうやって本題に入ろうか、と考えているうちに「大正生まれ」の一言を聞き流してしまった。 それから更に、3人の老人に繰り返し会いに行くようになった。初めて会うとき必ず聞く「私は大正生まれです。」という気高い一言。自分が祖父母と育たなかったせいか、「現在85才以上」の他にどういう意味があるのか分からず「はあ、そうですか」と間の抜けた返事をするばかりだった。「大正生まれのどこがえらいの、ただ早く死ぬだけじゃないの、という冗談があったんですよ、日本時代が終わってずっと後のことだけれど。」とそのうちの一人の老女に言われて、ハッと気がついた。日本語が禁止されてからも言われ続けるほど、「大正生まれ」は台湾にとってある深い意味をもつということに。 多分それは、台湾人が日本の兵隊となった数年の枠のせいだと思う。昭和生まれは終戦時19才以下だから、昭和16(1941)年に始まった志願兵にも、終戦直前の昭和20(1945)年に始まった徴兵制にもひっかからず、主に少年工として台湾や日本各地に飛ばされた。この1941年から1945年までに兵隊に行ったのは当時20才から25才程度の若者、今100才から86才の老人ということになる。ちょうど大正15年・昭和1年生まれが分かれ目だ。 戦争へ行くことが彼らの人生を変えたことは、言うまでもない。そして実際に兵士や軍夫となった人々と共に、「兵士となるべく」教育されたこのジェネレーション全体が特殊な経験をしたと言っていい。歴史学者はこの日中戦争が始まる昭和12年(1937年)以降を「皇民化運動」時代と呼び、台湾、朝鮮総督府が日本人としての国民意識を植民地に本格的に植え付けた、アイデンティティー上の「民族抹殺」の時期だと説明する。正直、私は民族の問題よりも、当時の青年層を形成した世代がこの時代をどういう思いで生きてきたか、に興味がある。皇民化運動時代、男女ともに「青年」というだけで重大任務を負う存在とされた。日本語を流暢に話すこと、親に日本語会話を強要すること、強靭な肉体を作ること、爆薬を使う危ない勤労奉仕をすること、米を増産すること、「死ぬまで鍛煉」と念じてあらゆる私欲を絶つこと。そうやって今まで期待されたことのない責任を果たしながら、台湾の未来を引っ張っているという希望。それと同時に感じる就職先のない不安感。金持ちや日本人ゆえに上級学校に進む人たちへの卑下。私が見る資料は、こうした青年の日常生活を目の前に描き出す。 終戦の日が来て、時も政治も容赦なく移り変わる。青年たちが受けた動揺は他の世代の比ではない。彼らは激動の台湾社会を、引き続き踏ん張り支え続けることになる。多分「死ぬまで鍛煉」と思いながら。日本人への様々な感情は別にして、「私は大正生まれですよ。」の一言には、その矜持が込められている。

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高校教師だったら言いたいこと。

高校生のとき、ある行事である先生が言った。「国際人になるには、まず日本のことをしっかり学ばないといけないんだ。君たちが外国で必ず聞かれるのは日本のことだから。」 なぜこの一言を特に覚えているのかは謎だが、ふいに思い出すことがある。思い出しては、喧嘩に負けた後のように、あらゆる反論を考える。当時「そうかもしれない」と納得してしまったのが多分今になってくやしいんだと思う。 歴史学生としては、一歩離れたところから、『国際人』という単語のおこりとか『国際』性とナショナリズムが交錯するのが日本の戦後社会を反映していて興味深いとか、ナショナル・ディスコースの拡散における教師の存在など議論するところなんだが、ひとまずそれは置いておく。学者の前に教育者として、私だったら高校生に逆になんと言うだろうか。 結論から言えば、「日本の外でも通用する人に成りたければ、自分が『これ』と思うことに打ち込みなさい。」 私にガツンと影響を与えた最初の世界人はミチだと思う。ノルウェー、スコットランド、アメリカで生まれ育ち、日本語、中国語、韓国語を操り、ヨーロッパと東アジアの歴史、哲学、プログラミングを語る彼の存在は、衝撃の一言だった。その後も複雑な背景を持つ色々な人物と知り合ったが、共通して言えるのは「母国文化を知る」ことなんて誰も求めてないし、そんなことで「国際人として合格か」なんて判断するなんて有り得ないということ。ミチはノルウェー人を時々自称し、しかも歴史学者でもあるけれど、だからって「バイキングの歴史はね」なんて語っているの聞いたことなければ、本人も全く興味なさげだ。 外国へ行って日本のことを聞かれるのは、それが無難な話題だからだ。でもそんな外交的表面的な関係ができてもーー例えば、寿司の話で盛り上がったとしてもーー正直役に立たない。友人とも言えない。人間関係では、もっとお互いの根本的な価値観を衝突させたり、共有したりすることで、信頼が産まれる。こんな簡単なメカニズム、こんなに抽象的に書かなくても直感でわかるものだ。京都生まれだからって「京都とは云々」しか語れない人、つまらない以外の何者でもない。 ついでに学問する身の視点に戻って言わせてもらえば、自国のことだからよく分かる、と思い込むことこそ恥ずかしい。大学院のセミナーでたまに「アメリカ人が私たちの歴史をどのように語るのか興味があってこの授業を取りました」という日本人や韓国人学生がいるが、大体3週間くらいで、その宣言がいかに虚しいか分かって前言撤回となる。歴史の授業で問われるのはいかに年代や人物を知っているかじゃなくて、いかに批判的にロジックを考えるかだから、今まで教科書を鵜呑みにしてきた学生は「自国」の前に「歴史」とは、という点からしてつまづく。 では、何が求められているのか。これも実は「日本の外だから」違うのではなくて、要するに人間として面白い人物になること。経験を積んで、自分の意見を構築すること。何かに打ち込んで、試行錯誤して、これだったら情熱と自信を持って話ができるという「何か」を身につけること。それがたまたま寿司だったらそれでもいいし、唐詩だろうが、車だろうが、スポーツだろうが、何でもいい。とにかく漠然と「日本のこと」を語るステージを超えて、勝負できる何かを見つけること。 と15年前の自分に言ってあげたい。

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日本語で書いてみる

30代になって気付いたが、幼い頃から4,5年ごとにふと我に返るというか、長期的視点から自分の現在地を確認したくなる時があるようだ。今の博士課程に入って4年、政治学を含めたら6年、最初の渡米から10年。始めは「意外にできなくもない」という感覚がうれしくて入り込んだ学問の世界だが、自分のnicheがはっきりしている歴史学では特に事が順調に運び、気が付けば周りの友人も学者ばかり、自分とは直接関係ないのにフルブライト・ヘイズの取消騒ぎに一丁前の意見を振り回し、学位取得後の就職難を嘆くのは日常茶飯事の、カブレタ博士生となった。 どんよりとした天気の午後、ふいに相方の同意が欲しくなって、「わざわざ可能性を狭めなくてもいいよね。」と切り出す。いつものように “What do you mean”って言われるのを待って、学位を取ったからって自分の将来をアカデミアの範疇だけに狭めるのは、本末転倒だと思う、もっと多くの人に発信して行きたいと、宣言なのか反省なのか、希望なのか不安感なのか、自分でも分からないまま話す。今日やっと手に入れたGPS dataloggerであれこれ試しながら、”Of course you should do what you want to do. You can still write for general audience as a university professor as well,”と相方。 明後日からまたタイ・インドネシア・オーストラリアの各地でリサーチで、その準備もその前に終わらせることも山のようにある彼に、わざわざこのタイミングでこんなすね方をするのもどんなものか。それでも色んな可能性をあれこれと具体的に話して一安心した後一言、”But it’s ironic if I end up getting an academic job … Continue reading

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