Category Archives: History

ジャーナリズムとの違い

前に「日本語で書いてみる」と宣言してみたのはもちろん日本語の分かる一般のオーディエンスを意識して練習するためなのだけれど。最近ジャーナリスト(ノンフィクション作家)の作品を読みつつ、やっぱり違和感を覚える今日この頃。 たとえば、少し古いが加藤邦彦氏の『一視同仁の果て』や林えいだい氏の『証言台湾高砂族義勇隊』を読むとする。加藤氏は1935年に高雄で生まれており、林氏は在日韓国人という個人的なバックグラウンドもあってか、著者の際立った情熱を感じるし、生き証人との対話の中で、私と同じように「これは書かなくてはならない」という衝動があったことが見て取れる。ジャーナリストとしては一流の仕事だとは思う。でも、ナレイティブが終始一貫しすぎて、それ自体がなんだか現実的じゃないような気がするのだ。 「ナレイティブ」と簡単に言ってしまったが、これこそ歴史家のbuzz word。政治学から転向した時に「歴史学部の学生ってやったらnarrativeって言うよな〜」と思った。中々うまく定義できないけれども試してみよう。歴史とは、過去に起こったことの物語、と平たく言うとして、やたらめったら史実を書いて物語になるわけでなし、話の筋というか、なぜこの部分の史実とあの部分の史実をつなげる必要があるのか、自分で決めなくてはならない。大抵は自分が証明したいことのために因果関係を追って物語を書く。その話の筋が「ナレイティブ」。植民地史ともなればそりゃもう色々なナレイティブが交錯するーーひたすら搾取の50年だった、というナレイティブ。帝国主義が近代インフラをもたらした、というナレイティブ。帝国主義の名を借りて資本家が一般人を搾取したんだ、というナレイティブ。台湾人はそれでもしたたかに生きた、というナレイティブ。女性は男性よりも虐げられた、いや、逆に解放された、というナレイティブ。日本時代は台湾社会を根本的に変容させた、というナレイティブ。いや、日本統治は結局台湾社会をちっとも変えなかった、というナレイティブ…。切りがないのでこの辺でやめよう。とにかく、ナレイティブなしには歴史は語れないし、自分の独自性や信念をさらけ出すことになるので、歴史学者はこれに非常に敏感なのだ。 上記の作品を含めて多くのジャーナリズムは、ナレイティブをシンプルにしなければ読者が混乱するし、メッセージが伝わらない、という制限を(本人たちは知ってか知らずか)抱えていると思う。例えば、『一視同仁の果て』は日本帝国政府が加害者で、軍夫として徴用され片腕と片目を失った台湾男性を被害者とする。どこからどう見ても、この加害被害関係は明らかだし、「戦争と帝国動員のせいで悲劇を被った可哀想な植民地青年」というナレイティブは説得力がある。ただ、おや?と思う点を、この大きなナレイティブのせいで無視することになる。当時、恋愛結婚は社会規範に反していたけれども、それを無視して好きな人と結婚した、と語る男性。まるでこの「社会規範」は帝国主義の一部のように語っているが、当時日本統治者が散々「聘金制度撲滅!」「自由結婚推進!」と叫んだことを利用したのではなかっただろうか。また、このナレイティブ内では搾取されていると感じ続けた彼が、なぜ日本の敗戦に涙を流して悲しんだのか。というように、疑う余地のない大筋のナレイティブの中でも複雑極まりない要素が色々とあるのだ。歴史家としては、というか私個人的に、こういう簡単には説明できない心理や現象に心惹かれるので、シンプル且つパワフルなナレイティブに必ず疑問を挟んでしまう。一筋縄で説明できないのが人生だと思うから。 実はジャーナリストだけではなくて、オーラル・ヒストリーをする際にもこういうパワフルなナレイティブと複雑な史実の間に立つ問題があるのだが、それはまた次回。

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大正生まれ

「大正生まれの者だと言って、日本の新聞に投稿してやりました。」初めて訪ねる老人に言われたときはしっくりこなかった。「国鉄の職員、飽くまで公務員が、何万という利用者がいるのにストライキだなんて、許しちゃいけないって。」正直、私の歳では国鉄職員のストライキさえ記憶の範疇か、際どいところだ。日本統治時代の台湾の話を聞く前のウォームアップのはずだったのに、聞き出すどころか、すでに押されている。机の上に伏せてある最新号の文藝春秋を見たときに覚悟すべきだったか、どうやって本題に入ろうか、と考えているうちに「大正生まれ」の一言を聞き流してしまった。 それから更に、3人の老人に繰り返し会いに行くようになった。初めて会うとき必ず聞く「私は大正生まれです。」という気高い一言。自分が祖父母と育たなかったせいか、「現在85才以上」の他にどういう意味があるのか分からず「はあ、そうですか」と間の抜けた返事をするばかりだった。「大正生まれのどこがえらいの、ただ早く死ぬだけじゃないの、という冗談があったんですよ、日本時代が終わってずっと後のことだけれど。」とそのうちの一人の老女に言われて、ハッと気がついた。日本語が禁止されてからも言われ続けるほど、「大正生まれ」は台湾にとってある深い意味をもつということに。 多分それは、台湾人が日本の兵隊となった数年の枠のせいだと思う。昭和生まれは終戦時19才以下だから、昭和16(1941)年に始まった志願兵にも、終戦直前の昭和20(1945)年に始まった徴兵制にもひっかからず、主に少年工として台湾や日本各地に飛ばされた。この1941年から1945年までに兵隊に行ったのは当時20才から25才程度の若者、今100才から86才の老人ということになる。ちょうど大正15年・昭和1年生まれが分かれ目だ。 戦争へ行くことが彼らの人生を変えたことは、言うまでもない。そして実際に兵士や軍夫となった人々と共に、「兵士となるべく」教育されたこのジェネレーション全体が特殊な経験をしたと言っていい。歴史学者はこの日中戦争が始まる昭和12年(1937年)以降を「皇民化運動」時代と呼び、台湾、朝鮮総督府が日本人としての国民意識を植民地に本格的に植え付けた、アイデンティティー上の「民族抹殺」の時期だと説明する。正直、私は民族の問題よりも、当時の青年層を形成した世代がこの時代をどういう思いで生きてきたか、に興味がある。皇民化運動時代、男女ともに「青年」というだけで重大任務を負う存在とされた。日本語を流暢に話すこと、親に日本語会話を強要すること、強靭な肉体を作ること、爆薬を使う危ない勤労奉仕をすること、米を増産すること、「死ぬまで鍛煉」と念じてあらゆる私欲を絶つこと。そうやって今まで期待されたことのない責任を果たしながら、台湾の未来を引っ張っているという希望。それと同時に感じる就職先のない不安感。金持ちや日本人ゆえに上級学校に進む人たちへの卑下。私が見る資料は、こうした青年の日常生活を目の前に描き出す。 終戦の日が来て、時も政治も容赦なく移り変わる。青年たちが受けた動揺は他の世代の比ではない。彼らは激動の台湾社会を、引き続き踏ん張り支え続けることになる。多分「死ぬまで鍛煉」と思いながら。日本人への様々な感情は別にして、「私は大正生まれですよ。」の一言には、その矜持が込められている。

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What I am doing in Taiwan

One and half months ago when I arrived in Taiwan, I had no idea where I would be picking a case from. One month into my research here, I was at the peak of uncertainty — I could not find … Continue reading

Posted in History, My Grad School Life, Research, Taiwan